2004年10月28日

再評価と記憶喪失

 読売新聞の文化欄に「没後100年 チェーホフの現在」という記事があって、現在のロシアにおけるチェーホフ評価に関し、ロシア文学者の中本信幸氏に取材した見解として次のように書かれていた。

「ソ連崩壊後、それまで検閲などによって未公開だった書簡の研究が進み、『神格化された偉大な作家』ではなく『人間的でデリケートな男性』の一面が明らかになりつつある」。たとえばフランスの作家ロジェ・グルニエは、「チェーホフにとって結婚はサハリンよりつらい試練で、終生女性に対して恐怖心を抱いていた。そのくせ、周囲の女性に対して『恋愛遊戯』を仕掛けるのが好きだった」とその著書『チェーホフの感じ』で書いている。中本氏は「矛盾に満ちた生きたチェーホフ像に迫る多用な解釈が可能になった」とみる。

 これがロシア国内にかぎった状況の話なのであれば、なるほどソ連からロシアになってそう変わったのか、で済む記事なんだが、この記事は「しかし、日本では読者に届くチェーホフ像は、かなり更新が遅れている」と続けて、あたかも日本でのチェーホフ像がソ連時代のロシアと同様な状態に留まっているかのような印象を与えている。
 ソビエト体制を経験したわけでもないわれわれ日本人は、べつにグルニエなど持ち出さなくても女性恐怖と恋愛遊戯趣味が同居するデリケートなチェーホフ像が当たり前だったはずだ。たとえばモーパッサンなどもそうだ。よほど偏った先入観でも抱いていないかぎり、普通にチェーホフの小説なりを読めばそれ以外のチェーホフ像を抱くことはほとんど考えられない。
 にもかかわらずこの記事は、まるで日本人が共産党独裁下のロシア人と同じチェーホフ像を昔からずっと抱いてきて、現在も抱き続けているかのような調子で書かれている。これはまったく事実に反している。仮に偉大な作家と崇められてきたにしても、それは「人間的でデリケートな」作家であるがゆえに偉大ということのはず。少なくとも日本におけるチェーホフは、ドストエフスキーみたいに思想アイドル的に偏った持ち上げられ方をしたことはなかったはずだ。
 ソ連時代の偏った文学状況を経験したロシア人なら、今まさにチェーホフを再評価する必要もあるだろう。しかし、もともと偏ったチェーホフ像など抱いていない日本人がチェーホフを「再」評価しなければならない理由はまったくどこにもないんである。
 そもそも再評価というのは忘れっぽい人がすること。もしチェーホフ(なり、誰なり)を再評価しなければならないと主張する人がいるなら、その人自身が忘れっぽい無責任な人ということでしかない。
(私はチェーホフを忘れたことはないから昔も今もずっと評価し続けている。日本でチェーホフを愛読する人はほとんどがそうだろう)

 べつにこの記事にかぎらないのだが、とりわけ昨今、このての忘れっぽさと御都合主義の過去捏造が目立つ。昔の青少年は自立していたとか、昔はみんなマナーを守っていたとか、ゴミのポイ捨てなど誰もしなかった(!)とか。そういう記憶喪失と過去捏造の氾濫はどこからくるのか。
 この読売新聞の記事の場合は、起承転結のきいた原稿を書きたいがために事実を無視して(記事の体裁を整えたいという目先の都合のために事実をねじ曲げて)書いているだけだろうけれども。
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2004年10月21日

不継続は非力なり

 久方ぶりに本屋へ行ったら本をさがすのが下手になっていた。背表紙がずらっとならんでいるのへ視線を横にさーっとすべらせて目当ての本をさがす、本屋に通い馴れた人なら誰もがやるであろうあれができない。目が悪くなったのかとも思うが、新聞の字が読みにくくなったという自覚もないから、動体視力が衰弱したのかもしれぬ。まあ、たんに馴れの問題でしょうが。
 本屋が棚を入れ替えていたのも一因か。前は単独であった「推理、ホラー」のコーナーがなくなっていた。ほかの本が増えたのかというとそうではなくて、かわりに在庫処分みたいなビデオ群がならんでいた。つまり本の全体量が減ったことになる。やっぱり単行本は売れないんですね。目当ての本は結局みつかりませんでした。
 ってなことはどうでもいいのだが、高橋洋という人の『映画の魔』という本をちょっと立ち読みした。『セブン』をけなして『コピーキャット』をほめる、というような一文で、つねづねハリウッド最低映画の一つと思っていた『セブン』(同レベルのどうしようもない映画には他に『バッドボーイズ』がある)について、高橋さんがこちらの思っていたのとまったく同じこと(すなわち、「そのていどの狂人」を大袈裟に見せかけようとして、まるっきり見え透いてんだよ、底の知れたちゃっちいうすら監督が! みたいなこと――高橋洋氏はもちろんこんな乱暴な書き方はしていませんが)を書いていたので、自分の感覚はまともなのだと確認できてよかった。まともでなかったら、示し合わせたわけでもない赤の他人とぴったり同じことを考えるはずがないですもんね。
『コピーキャット』については高橋さんほど熱心にほめる気持ちはないが、そりゃ『セブン』に比べたらずっとマシであることは確か。猟奇事件の犯人がどこからどうみても「普通の人」である点が注目に値するという意見には特に異論をさしはさむ気はありません。ちなみに、「普通の人がいちばん怖い」ってな低レベルな話ではありませんよ。
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2004年10月20日

中心男の電車でハリ世界をポタる

 しかし電 車 男ってのは実況的ノリで盛り上がる2ちゃんの「祭り」(川崎のオールスター投票みたいなもの)の典型でそれ以上でも以下でもないと思うんですが、変に持ち上げられたり持ち落とされたりするのはワイドショーきどりのブログ群が主な原因だったと思う(ちょうどブログの普及と電 車 男の流行は時期が一致していたはず)。「ネットで話題の」といったって、誰でも手軽にやれるブログを始めた慢性ネタ不足の人々が、一部でちょっと話題になってるものにみんなでのっかった結果、ネット中で盛り上がってるように見えただけ。やはりワイドショーと同じ構造。
 話題があるからコメントするのではなく、コメンテーターをやりたいから無理やり話題にする→話題にする以上、誉めるなり貶すなり何らかの意見を吐かなければいけない(という思い込みにとらわれる)→その結果、過大評価と過小評価ばかりが巷にあふれることになる。現象として問題にするなら電 車 男よりブログに取り憑くこの自動意見生産機能の側面だ。
 世 界 の 中 心 でなんちゃらとかハ リ ー ポ ッ タ ーなんかに敵意を剥き出したりする人もいますが、つまらない本なら世の中に無数にあるのになぜそれらだけが殊更に敵視されるのかというと、売れてるからという以外に理由を考えようがない。結局、売れてるとか人気があるとか有名ということにたいして反応してるだけなんですね(売れる前も売れた後も本の中味は変わってないんだから)。マイナーなバンドのファンが、バンドがメジャーで人気が出たとたん熱心なアンチになるみたいなもん。こうして物事はただの知名度によって実際以上か実際以下へと歪められ、事の本質は置き去りになって忘れられていくのです。


(文章の主旨上、下手に検索人気語句でかからないよう表現が一部不自然になっております)
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2004年10月16日

新聞記事の感想(なんてこんなもんでしょ?)

 読売新聞に大澤真幸という人が「ジャック・デリダを悼む」という一文を書いているのを飯食いながら読んだ。デリダの著書はほとんど読んだことがなくあんまり興味もないので、彼の業績がどうまとめられているのか、何かの参考にでもなるかと思って軽く目を通したのだが、大澤氏の紹介によるデリダは「なんだ、そのていどの人?」という印象。
 すなわち、例のデカルトの「われ思うゆえにわれ在り」という標語を頭から無邪気に信じているような鈍い連中が集まった場所でしか通用しない議論をずってやってきた人、という印象を大澤氏の一文からは受けた。そういえば高校生のころ、夏休みの読書感想文を書くためにカミュの『異邦人』を読んだことがあって(選んだ理由は本が薄かったから)、普通のことが普通に書いてあるだけの普通の小説だなあという感想しか浮かばず、感想文に書くことがなくて困ったものだが、いったいこんな毒にも薬にもならない小説がなんでもてはやされるのかとも思った。のちに、文学史の知識を多少得るようになってから、なるほどフランスの文学業界はこういう流れできていたからこういう時期にこういう小説が話題になったのか、と理解できるようにはなった(だからといって、あれが騒ぐほどの小説だとは今でも思いませんけどね。あんなていどで騒ぎたがる人たちもいるんだなあってことを理解したということ)。
 大澤氏が紹介しているデリダの業績は、いちいち偉い人に教えられなくてもわかるごく当たり前レベルのことに思える。実際にデリダがそのていどの人(当たり前レベルを考えることもできない連中に感心されたり騒がれたりしただけの人)なのかどうかは知らない。現実的に考えて数十年もの生涯、そんな学級会レベルの議論にかかりきりだったとも思えないが、まあ、どっちでもよいことではある。これまでもデリダを読んでみようかという気持ちになる機会はなかったし、今回もやっぱりならなかったという、それだけの話です。
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2004年10月14日

編曲中

「沼袋ブルース」は1番がほぼ完成。キーを間違えて作っててデータを全部入れ直したりしたのでちょっと手間取ってしまいました。それと、はじめ演歌を意識しすぎてイントロが大漁節みたいになってしまい、いくら何でもイメージに合わないだろうと作り直したり。2番3番は1番をほぼコピーするだけだから、あとは繋ぎの部分と終わり方。

一つの曲ばかりやってると感覚が麻痺してくるので気分転換に新曲「ぼくは淋しい吸血鬼」にも着手。
いろいろ模索したすえウェスタン調に。都会の荒野を侘しくゆく吸血鬼って感じでしょうか。
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2004年10月10日

言い換え馬鹿

くわしく書こうと思ったけど啓蒙くさくなりそうなので簡単に。

新聞を見てたら国立国語研究所が発表した外来語言い換え例というのが載っていた。
その中で特にひどいと思ったのはこれ。


リテラシー   読み書き能力、活用能力 (読み解き能力)


これは不適当な言い換えというより、単純に間違い。
「ハリウッドムービー」を「西洋ヒイラギの映画」と訳すようなレベル。

これを提案した人たちはリテラシーなどという以前に、国語の基本的な読み書き能力、読み解き能力、活用能力が欠如している。

(いうまでもないが英単語の"literacy"を「読み書き能力」と訳すのは間違いではない。しかし現代語の「リテラシー」は特別な概念をあらわす語に転用されて使われている)
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2004年10月08日

代わりにジャバ・ザ・ハットのぬいぐるみでも置いとけ!

細木数子の番組などまず絶対に見ることはないのだが、「ぶっちゃけナインティナイン」にゲスト出演していたから避けようがなかった。ナイナイの番組は全部見てるもので。

細木数子の芸のなさ、無用さはたぶんいたるところで語り尽くされているのではないかと思うけれども、無用なだけならいいが、邪魔なんですね(同時にゲストに出ていた青木さやかやさとう珠緒も無用だが、少なくとも彼女らは邪魔にはならない)。せっかくナイナイ岡村やくりぃむ有田がおもしろいことを言おうとしてるのに、中途半端に話を横取りして、もっとおもしろい話でもあるのかと思えば、お寺でもらうカレンダーに書いてあるみたいなこと(「悪いことがあればいつか必ず良いことがある」といった類の平凡な説教文句)を言うだけ。番組は盛り下がるのみ。

なんとか盛り上げようとするナイナイや青木さやかにキャラをいじってもらっても、リアクションができない。さらに番組は盛り下がる。

芸といえば占いだが、誰でも知ってるような芸能情報(実はさとう珠緒の趣味はおっさんくさい、とか。そんなのは本人がしょっちゅうテレビで言ってることにすぎない)を、あたかも占いで得た特殊知識であるかのように語るのみ。ひそかに下調べで仕込んだ知識を披露して客に「当たってる!」と言わせるのは占い詐欺の常套手口だが、詐欺にしてもレベルが低すぎる。
芸能レポートを孫引きした程度の下調べしかしてないから(とてもプロとは呼べない手抜きだ)、「実は……」のあとに出てくるのは視聴者がすでに知ってるようなことばかり。そんなので「当たってる!」と驚いてみせなきゃいけない共演タレントもご苦労だが、見え透いた茶番に付き合わされる視聴者にも負担がかかる(だったら見なければいいようなものだが、次のコーナーはゲスト入れ替えだからそれまでの辛抱)。

TVタレントとしちゃ、まだリアクションで笑いがとれるエスパー伊東のほうが存在価値あるよ。芸のジャンルもレベルも似たようなもんだからね。

さいわいなのは、ゲスト出演だったからもう見なくていいってこと。ナイナイの番組のゲストはお笑い系だけにしてくれんかな。


ってことで、この「ぶっちゃけナインティナイン」という番組自体、ナイナイがやってる中ではいちばん微妙な――というか、はっきりいって駄目な番組なんだが、それについてはいずれ機会があればまた。
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2004年10月06日

手品が好きでない3つの理由

1 何か不思議な現象が起きるに決まっているので、何が起きても意外性がまったくない。

2 意外性はまったくないのに、演者に気をつかって(というより場の空気に合わせて)感心したふりをしてあげなくてはならない。

3 やれカードを引けだのコインを確認しろだの、前フリの手順(何も面白いことが起きない時間)が退屈。
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2004年10月02日

イチローやったね(見出しが思いつかない)

ネット調べてたら『氷の海に眠りたい』(Le Boiteux)には二作目(Le Baptême Du Boiteux - Le Boiteux II)があるらしい。一作目と同じくヴィンセント・ウィンターハルターのデブール刑事が主役。オドレイ・トトゥはもう出てないから日本ではビデオも出ないだろうな。見たい。
ところで監督はポール・ザジェルマンとなってるけど綴りはPaule Zajdermannで、女性なんですね。TVドラマを作ってる人で、少し女優もしたことがあるようです。
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2004年09月30日

イチローがんばれ(見出しが思いつかない)

さっき知ったけど、再結成ニューヨーク・ドールズが来日してたんだね。
同時期にこのタイトルでブログ始めたのは、奇遇ってほどでもないか。
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2004年09月28日

タイトルはニューヨーク・ドールズの曲より

めんどくさいのでブログにしました。
日記ではないので日付と内容はあまり関係ありません。
コメントも付けられるのでどなたでもご自由にどうぞ。
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