2008年06月21日

オカルトつながり

徹子の部屋のゲストがミナ・ハーカー、じゃなくてサチ・パーカーだったので、なんとなくネット検索してみたら、母親のシャーリー・マクレーンとウィリアム・ピーター・ブラッティが友人だったとかで、小説『エクソシスト』は彼女ら母娘のイメージで書かれた、てなことが書いてあった(サチがリーガン)。
ちなみに徹子の部屋で語られたエピソードに出てきたサチの娘の言動が、何やら祖母の思想の影響を感じさせるようなものだった。前世がどうこう?みたいなことを言うそうな。

なお日本版ウィキペディアには、本名「サチコ」は小森和子の命名だとあるが、本人の説明は全然違うものだったぞ。


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2008年05月26日

映画コラム

 九州・山口版だけだと思うが、読売新聞に「廣瀬千尋の眼」という映画コラムが連載されている。
 それの5月25日(日)付、『山のあなた 徳市の恋』を取り上げた回より。

清水宏監督の『按摩と女』(1938年)のリメイクなのだが、ただのリメイクではない。いわば完全復刻版なのだ。
 他人の作品をリメイクする場合、オリジナル版の設定、ストーリー、人物、描写をどこまで生かすかによってオリジナルと印象の異なるものとなる。(中略)とりわけつくり手は、再映画化する以上は前作を超えようとするから、感じの異なるものになるのが普通。
(中略)
『椿三十郎』(62年)のリメイク版(2007年)が、オリジナル脚本をそのまま使ったのはむしろ珍しい例として話題になる。
 ところが今回の『山のあなた・・・・・・』の場合は、そのうえをいってオリジナル版の各場面をそのまま再現することに努めたという。脚本は失われていたが作品そのものは残っていたので、そんなことが可能となった。こんなリメイクは初耳だ。絵画の模写、あるいは下書きをなぞる写経を思わせる仕事である。その意味でこれは珍品といっていい。

「初耳」って、ガス・ヴァン・サントの『サイコ』があったじゃん。
 読売(九州・山口版)のこの面では、もう終わったが安部文範という方の「文さんの映画をみた日」というコラムも以前に連載されていて、そっちはなかなか読み応えがあったのだが、残った「廣瀬千尋の眼」のほうは同じ映画コラムでもふにゃんふにゃんである。
 似たような実験をやっている(映画ファンにとっては有名な)前例があるんだから、何ごとかを語るのであれば、両者を比較して意図の違いなり何なりに言及するぐらいのことは最低限やらないといけない。そうでないなら最初から何も語らないほうがよい。前例を知らないというのだったら、知らないことは語るべきでないと知るべきで、ろくに調べもせずに「初耳」などと作文上の行きがかりで書いてしまうのは、少なくとも評としてはアウトである。
 たかが新聞ごとき、パンフレットを引き写しただけの薄っぺらな紹介記事として流し読んどけってことなのかもしれないが(実際、内容はそれ以外の何ものでもないのだが)、「眼」などと視力自慢げなタイトルを冠している以上、最低限の目配りぐらいは期待してしまうではないか。

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2008年05月24日

メモ

読売新聞5月21日(水)より
新作『最高の人生の見つけ方』のプロモーションで来日したジャック・ニコルソン。

ここ数年、コミカルで愛すべき作品への出演が目立つが、そのきっかけは2001年の「9・11」テロだった。
「テロが起きたとき、思ったよ。多くの映画人がこのことに関連して映画を作り、10年後に赤面するだろうってね。私は、自分がよく理解していないことに対して深刻に語るのは好きじゃない。だから道化の道を選んだんだ」
 そう考えるのは、ベトナム戦争の時代を生きた経験からでもある。
「あの後、戦争についての映画がたくさん作られた。自分が監督した『ドライブ、ヒー・セッド』という作品も含めてね。でも、振り返りたくない。どんなに自分がバカだったか気づかされるから」


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2008年03月09日

みんな思っているはず

 



pupazzo1
まちゃまちゃ……?



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まちゃまちゃ……!?



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まちゃまちゃ……




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2008年02月29日

カテナチオと密室

↑なんていういんちきミステリー評論じみた表題はおいといて、藤原編集室の「今日のあぶく」(2/29付)に、現在企画中のL・P・ハートリー短篇集にからんだコメントとして「ヴェネチアを舞台にした話が数篇入っていて、イギリス人にとってのイタリア、ということをちょっと考えたり」と書かれていた。
 まっさきに思い浮かんだのはなぜかジュリアン・シモンズの『クリミナル・コメディ』だったが、当然ここで想起さるべきなのはアン・ラドクリフ、M・G・ルイスといった名前であろう。つまり19世紀イギリスのゴシック文学、暗黒小説の作家たち。彼らのイタリア幻想は露骨に明らかである。
 それとは若干ずれる話かもしれないが、フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』を読んだときは、後半にお話の舞台をイギリスからはるかコモ湖畔へもっていく理由がかくべつ見当たらず、もしやこの作者はコモ湖畔の描写がしたいがため強引にそういう展開を作ったのではないかと思ったものだ。というのも初めてフィルポッツの小説を読んで一番印象的だったのは、トリックでも探偵趣味でもなく、風景描写だったからである。
 たとえば(フィルポッツの近所に住んでいたこともある)クリスティーなどは、映画やドラマになったものでは風景撮影が強調されているが、原作の小説では風景描写といえるほどのものは実はあまり出てこない。晩年の作では多少そういう描写も試みているが、あまり得意そうでもなかった。しかしフィルポッツは60歳近くになってミステリーを書き始める以前に多数の一般小説(特に田園小説)を書いていたせいか、英国ミステリー作家のなかでも抜きん出て風景描写がうまい。つまり、自分の得意なことを発揮するために、ミステリーのプロットとはあまり関係ない動機からお話の展開を強引に作ったのではなかろうかと、『レドメイン家』読後に思ったわけである。
 そうした風景趣味は当然、交通機関の発達による19世紀以降の「観光旅行」の流行ということも関係あるはずだが、そういえばシモンズの『クリミナル・コメディ(The Criminal Comedy of The Contented Couple)』はイタリアへのツアー旅行のお話だった。もちろん、ダンテの『神曲(La Divina Commedia)』をもじった題名のこのシモンズ晩年の作では、往年の英国作家たちが好んだイタリア幻想は素直な形では再現されていない。が、素直でない形でなぞっていると見ることもできよう(最後に判明する真相なんかもねっ)。
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2008年01月22日

みんなが辛い目をみているのだ

 1月12日付の「こどもの詩」のところに自分が書いた「歯が抜けることも痛いが歯に噛まれる側の動物だって痛い、どんな生物も何かしらみな痛みを有しているのだ」という文章が何かに似ているなあと考えて思い出したら、ロス・マクドナルド『魔のプール』に出てくる一節「賞められるべき人間もいなければ、責めるべき人間もいない〜みんなが辛い目をみているのだ」だった。
 ロス・マクドナルドってこんなふうに自分で(場面の意味を)説明しちゃうところがちょっと安っぽい。せっかくお話を書いたんだからみんなにわかってもらわなきゃ損という貧乏根性のなせるわざなんだと思うが、いちいち作者に説明してもらわなくても読みゃわかりますよ。
 とはいえ、説明してもらわないとわからない人が世の中に多いのも事実で、だから大市場をあてこんだアメリカ映画は何かと最後に主人公が感動的演説ばっかりやっているのだ。最後の演説で全部説明しちゃうんだったら、そこまで二時間だかをかけてやってきたドラマ描写は主題提示に関するかぎり時間の無駄に等しいわけで、これは見る人を馬鹿にしているだけでなく、作者(監督、場合によっては脚本家)にとっても屈辱的なことだと思うのだが、「観客は馬鹿だからくどいほど説明してやらないと理解できないのだ」というそれなりの事実に即したマーケティングに基づく製作システムの中で、仕方なしにやっていることなんだろうなあ(と思いたい)。
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2008年01月12日

「こどもの詩」

 読売新聞で連載している「こどもの詩」、1月6日の回より。


  はがぬけたよ

  はがぬけたよ
  はがぬけてうれしい
  でもいたい
  ぬけたはで手をつっついてみた
  いたかったよ
  これが草しょくきょうりゅうの
  きずのいたみだとおもう



   恐れをしらぬ恐竜だって、生きてい
  たときは、歯がぬけたら、きっと痛か
  ったんだろうなあ。   (長田弘)


 ごらんのとおり、この詩のみどころは、抜けた自分の歯で自分の手を突いてみた体験から「(肉食恐竜に噛み砕かれる立場の)草しょくきょうりゅうのきずのいたみ」へと空想をふくらませる部分である。おそらく絵本か何かで生物の食物連鎖について知ったことが念頭にあったと思われる。にわか仕込みの知識をもとに、卑近な体験と壮大なテーマを空想でじかに繋げてしまうところが、いかにも子供らしくもあり科学的でもあるおかしさである。この場合、恐竜の歯が抜ける痛みのことはあんまり関係ない。そもそも書かれてもいない。
 厳密に読み解くなら、「歯が抜けることも痛いが歯に噛まれる側の動物だって痛い、どんな生物も何かしらみな痛みを有しているのだ」といった万物への哀れみが主題になっている作品といえなくもないから(といっても作者は小学一年だからそこまで主題を明確に意図していたとは考えにくいが、結果としてそうした主題の作品になっていると読むことはできる)、そこまで読んだうえでなら「恐竜だって〜歯がぬけたら、きっと痛かったんだろうなあ」とのコメントが出てきてもあながち的外れともいえぬが、この連載を毎回見ていると長田弘という人のコメントは子供の感性にたいし鈍感すぎるのが通例ゆえ、怪しいものである。
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2007年04月08日

新刊ミステリー&ホラー

ちょっと遅くなってしまった感は否めませんが、いただいた新刊本のとりあえず紹介だけさせていただきます。

芦辺拓さんから『からくり灯籠 五瓶劇場』。ありがとうございます。
からくり灯籠 五瓶劇場
《大坂、江戸で活躍した大歌舞伎作家・並木五瓶。平賀源内、十返舎一九、鶴屋南北らとともに、謎と怪異に挑む!》
《実在の歌舞伎作家の半生を辿りながら、江戸時代ならではの謎と怪異を溶け込ませた芦辺ワールドの新境地!》

との内容で四篇からなる連作集になっています。
ところで、いただいた本の送付元のところに「著者謹呈」とあり、ということは著者の意向で送られてきたということになりますが、これまでたとえば芦部氏の著作を書評等で取り上げたということも特になく(そもそもそういう原稿もあまり書いていないので取り上げた著者作品自体が圧倒的に少ないのですが)、御本人との面識も何年か前に数秒のあいさつを交わした程度だったと思うので、どうして今回わざわざ「著者謹呈」で送られてきたのかなあと思ったんですが、やはり主人公が「並木」五瓶だからなんでしょうか。それか、作品内容がクトゥルーに関連するということで、当方が(かくべつホラーが得意分野というわけではないのだけれども)ホラー関係の場で原稿を書いたことがあるのを記憶していただいていたのか。あるいは、その0.5ずつの動機が重なって1になった、ということかもしれませんが。
というのは勝手な推理というか憶測ですが、まあこういうのも何かの御縁ということでしょう。


倉阪鬼一郎さんからも二冊、いつもありがとうございます。
騙し絵の館
騙し絵の館
《過去に怯えながら瀟洒な館でひっそりと暮らす少女。過剰なまでに彼女を守ろうとする執事。そして頑なに作品の刊行を拒むミステリー作家。連続少女誘拐事件が勃発するなか、謎めいた彼らの秘密が少しずつ明かされる》
《張り巡らされた大量の伏線に、倉阪鬼一郎は何を仕掛けたのか? 幻想的な館を舞台に描かれた、詩情溢れる野心的本格ミステリ》

東京創元社からは『無言劇』に続いて二冊目のミステリーになりますね。

うしろ
うしろ
《それは奇妙なマンションだった。女性専用で、セキュリティは万全、一見何の問題も無いように見える。だが、常に観察していれば気づくだろう、ここでは妙に人が入れ替わることに。そして、出て行く者の顔は必ず恐怖に歪んでいることに。音楽を学ぶために来日したイェニョンは、希望を胸に訪れたが――。仕掛けられた呪いが発動するとき、それはうしろに立つ――》
こちらは角川ホラー文庫。
やはり文庫本はいいなあ。子供のときから馴染んでいるので自分としてはいちばん手にとりやすい本の形です。


えー以上、さしあたりほんとにただの紹介だけで申し訳ないですが。
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2007年03月04日

白人は白い

別のところに書いておいたように「白人は色白」というネタの夢を見たのだが、テレビで『ヒマラヤ杉に降る雪 Snow Falling on Cedars』という映画(民族差別を題材にしたメロドラマ)をやっていたのが一因かもしれない。
この映画はいちおう法廷ミステリーのような形になっているのだが、謎解き興味をひきそうな部分(手がかりとかアリバイとかの具体的なデータ)を故意に伝わりにくく作ってある。つまり、そんなオモシロオカシイ興味ではなくニンゲンドラマやシャカイテーマを見てくださいというのが作り手の意志というわけであって、ほんとにただの通俗メロドラマ(重複表現だが、メロドラマのなかでも貧しい部類の意)になっていた。
工藤夕貴が準主役級といってもよい役どころにもかかわらずタイトルのキャスト順はずらずらならぶちょい役白人俳優たちのはるか後のほうに押しやられていたのが、映画の内容よりもよほど差別にみえたことであった。
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2007年02月09日

よるごはん

いい大人がテレビで言うのをよくきく。
わざと幼児ぶって言っているのかと思っていたが、どうやらマジの場合も多そうである。ヨネスケはもっと頑張るべきである。
晩酌のことは夜酌と言わないのかと思ってネット検索したら、若干ながら用例がヒットした。わざと言ってるのだと思いたい。

「百歩ゆずって」も当初は誤用をうるさくいう連中のほうがおかしいのだと思っていたが、どうやらマジで誤用している大人も多いらしい。そのうち「五十歩百歩」も「五百歩千歩」「五千歩万歩」が普通だと思う人が出てくるのだろうか。

ただ、そうした誤用を平気で使う連中と、いちいち誤用を指摘して悦に入ってる日本語ブーマー(テレビや本の日本語クイズに答えてよろこんでるような連中)は、言語センス的にはまったく同レベルに思える。
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2007年02月08日

メクラウナギ

とうとう正式改名されてしまった。
新しい正式名はホソヌタウナギ。どうやらオオニタアツシ、ホソカワタカシの同属種と思われる。
メクラーノ・コジッキ氏もメノフジユーナ・ホムレス氏に改名する日がついにくるか。
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2006年12月22日

テキサスのホラーバンド

何年か前にネットで世界のインディーズバンドを漁っていたときにみつけた Eerie Ln というバンド。テキサス州フォートワース出身(関係ないがハイスミスと同郷)。
http://www.myspace.com/eerieln
前に聴いたときはヘビメタぽい曲だったのだが、上記myspaceでもっと以前の曲を聴いてみると、もともとはミスフィッツばりのかなりストレートなガレージパンクをやっていたことがわかった。"Raccoon City Rock"なんてもろにOiOiOiですもんね(ちなみにラクーンシティはバイオハザードに出てくる街)。
1998〜2000年の曲がガレージ風で、2002年の曲がメタル風になってるから、そのあたりで変化したと思われる。当方の好みはもちろん初期のほう。

同じときにみつけた 3RDNLONG というやはりテキサスのバンド。
http://www.myspace.com/thirdnlongrock
こっちはちょいしょぼいが、いっしょうけんめいやっている感じでかわいげが。
"Probation"という曲は、上のmyspaceのバージョンはいきなり曲が始まっているが、本当はイントロの前に『悪魔のいけにえ』の冒頭ナレーション音声をまるパクリで入れてあった。そのナレーションが終わったところでイントロに入る構成がなかなかかっちょよかったのだが(というか、ほとんどそこ「だけ」気に入っていた)、削られてしまったのは、まあしょうがないか。
そこの部分だけ内緒でちょっと紹介してやれ。

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2006年12月18日

クラブワールドカップ決勝

バルセロナはそうとう苦しむだろうとは思っていたが、1点も取れずにあっさり完敗するとはさすがに予想しなかった。インテルナシオナルは、アナウンサーはやたら「ガウショ魂」を連発していたが、一番の印象は「やっぱこいつらうめーなー」で、何よりもテクニックがある。ただ見た目に軽くないので(相手が相手というせいもあるが)、往年のサンパウロなんかの華麗なサッカーとはたしかにイメージが違う。テクニックがあるのに軽くない、ってことでアルゼンチンのチームに似た印象であった。
それにしても、バルセロナの試合を中継で見るたびに思うのは控え選手リストの中の「FWサビオラ」。アナウンサーや解説者も一言もふれない。メッシメッシ言うのもいいが、ワールドカップでもあれだけ素晴らしいプレイを見せたアルゼンチン代表のスターが控えの3番手4番手という感じで試合に使われず、テレビ中継でも名前すら話題に出されない、ってのはどうなの。いまのバルセロナの布陣を考えるとたしかに使いどころがないかもしれないが、いらないのなら早く手放してあげなさいよ。宝が腐っちゃうよ。
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田辺一鶴

 たまたま日曜の昼にテレビをつけたら田辺一鶴が映った(NHK)。
 田辺一鶴は当方が中学生だったころにはすでに「子供のころテレビでよく見た懐かしい人」という感じだったし、現在ではあのマンガじみたひげもすっかり白くなって年齢相応に風貌も変わっているが、映った瞬間にぱっとわかったのは数年前にもテレビで見かけたことがあるから。
 やっていたのは相変わらずのはちゃめちゃ講談で、そもそも当方は講談のことをまったく知らないから田辺一鶴の講談が標準と比べてどれぐらいの異色度かというのもわからないのだが、誰にもわかりやすいダジャレ漫談みたいなものだし見た目がマンガそのものなので、子供のころから「おもしろい人」というイメージがずっとある。
 でチャンネルをそのままにして見ていると、ダジャレのほかに、暗記自慢みたいなことを披露していた。お題はオリンピックで、発祥の古代ギリシアの遺跡発掘やらクーベルタン男爵がどうのというところから説き起こし、東京オリンピックの聖火リレー通過都市だの参加国だのをひたすらずらずらと暗唱していく。
 後半は脈絡もなく妖怪の話になり、こんどは妖怪の名前(水木しげる含む)を二百数十も延々と暗唱する。ネタの合間に「最近はボケ予防のために外出のとき帽子をかぶります、これがほんとのボケボウシ」みたいなことを言っていたから、ほんとにボケ防止のためにそういうことをやっているのかもしれない。
 幼児が駅の名前を暗記したりするのがあるが、こんなおじいさんがよくもそれだけ暗記したものだ、という芸なわけで、いわゆる「深みのある芸」とか「円熟の芸」とかではまったくなくただの一発芸みたいなもの。しかし、そもそもが田辺一鶴とはそういう人であった(いや落語にも寿限無寿限無みたいなのがあるから暗唱も立派な芸なのかもしれぬが、なにしろ講談のことは知らないのでそのへんはよくわからない)。長い暗唱の途中から客が「もうわかった」という感じで飽きても、中途半端に終わらせず最後まで全部やりきるのがよかった。というか、最後までやりきるのでなければ最初からやらないほうがよいというのは何ごとも基本であるが。
 講談といえば何年か前にNHKの新人演芸大賞だったかでみた女講釈師がやっていたのもわかりやすい漫談みたいなものだったから、最近は講談に親しまない人にもわかるようにそういうのが主流になってきているのかもしれない(が、他はみてないのでただの想像である)。

 落語も講談も江戸、上方であり、江戸や上方なんて当方からみればただの「よそ」であって、落語や講談の伝統なんてのも「よそごと」にすぎぬから、そういうものを「日本の伝統文化」などと言われるとたいへんうざい。わたくしは間違いなく日本人だが、「話芸の伝統」は自分とは関係ないよそごとである。日本人であるわたくしや同じように江戸や上方の話芸と関係なく暮らしている多くの日本人にとって無縁なよそごとであるものは、関東や関西(の一部)の文化ではあるのかもしれないが、断じて「日本の文化」ではない。そんなものを日本の文化だと主張する人々は、スモウやスシや演歌や寅さんの映画に出てくるみたいなもの、東洋的なファンタスティークなもの(むろん、当方の地元にある城やら橋やらも含む)だけが日本の文化だと思っている外人の目(外国から見た日本)を知らず知らず模範にしているだけだ。外国から見た日本イメージ=ジャポニスムは外国文化に属するものなのであるから、本来ならジャポニスムを語る資格は日本人にはない(少なくとも、日本人であることはハンディにこそなれ特権にはなりえない)のである。つまりジャポニスムと日本文化の区別がつかないような人は、自分こそが日本人であるということのアイデンテテエを見失っちゃってるのである。
 そんなこんなで講談や落語を「日本人ならわかっていなければならないもの」だとは微塵も考えない当方としては、田辺一鶴のようなわかりやすくおもしろい芸なら見るが、「伝統の深み」を売りにしているようなのは何かきっかけでもないかぎり見ないであろう。望んでそういうものを理解しようと自ら努力することはありうるだろうが、それはロシア文学の伝統を理解しようとすることと何も変わりはしない。
「昭和」の東京の下町だの人情だのは、ソ連時代のモスクワの下町と同様、当方には懐かしくもくそもないわけだが、そういうものを懐かしいと感じる「他人」がいるということを頭で理解したり、そうした「他人」の感情や感性が真に迫ったものか似非のポーズにすぎぬかを判別したりする程度のことは可能なわけだ。
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2006年12月02日

底部スイッチについて

さて、うちの電気ストーブは図のような形をしている。
switch1.jpg
斜め下から見た図でわかるように、底に電源ON/OFFのスイッチがついている。これは本体を床に直立させるとONになり、何かの具合で本体が倒れるとスイッチがバネで飛び出して自動的に電源がOFFになるように設計されたものである。

問題はここから。本体の土台の前半分、図の赤色で示した部分が割れて欠損してしまったのだ。
switch2.jpg
これにより、本体を床に直立させることが不可能となった。
しかたないので、右の図で示したように壁または物に立てかけて置くしかない。ところがそれだと、底部スイッチの圧迫がなくなるので電源が勝手にOFFになってしまう。

処置として、ガムテープを貼り付けて無理やり底部スイッチを押さえた状態に保つように試みたのだが、このスイッチのバネがおそろしく強力で、並大抵の貼り付け方では役に立たないのである。
switch3.jpg

そこで、もうがんじがらめに貼り付けてやるといくらか効果があったが、それでもしばらくすると勝手に電源が切れてしまうのである。
switch4.jpg
がんじがらめのガムテープを持ち上げるほどに強力きわまりないバネがこの底部スイッチ機構には使用されているのだ。

事態に対抗するにはもう手でずっとストーブを押さえつけてバネが戻らないようにしておくしかない。そうするとバネには勝てるが、ストーブを押さえつける以外の用事がほとんどできなくなるので、大局的には勝ったことにならない。
何より、たかが底部スイッチごときに超強力パワーのバネを使用するメーカーの意図がさっぱりわからない。嫌がらせか!



底部スイッチといえば電気スタンドにもついている(下図)。
switch5.jpg
で、うちの部屋はごたごたしているのでただでさえ電気スタンドを置ける場所が限られているのだが、さる事情から家財の配置換えをせざるをえなくなった結果、それまで電気スタンドを置いていた場所がなくなってしまった。
なんとか隙間を作って置けるようにしたが、そこで問題発生である(下図)。
switch6.jpg
スタンドを置ける場所が前より狭くなったので、後部の電源コードのでっぱりが背後の物Bにひっかかり、スタンドのケツが浮いて底部スイッチがOFFになってしまうのだ。ケツが浮かないように前にずらして置こうとするとスタンド自体が重心を失い物Aから転げ落ちてしまう。まさに前門の虎、後門の狼である。

どうにか騙し騙しの不安定なバランスで今のとこやってはいるが、こういう気持ち悪い事態を生んだ原因は、電気スタンドの設計デザインにある(うちの部屋に物を置く隙間がないのはおいとく)。
switch7.jpg
電源コードのでっぱりと底部スイッチを上図のごとく近接した位置に設計するからこんなことが起きるのだ。たとえば電源コードが後ろでなく横から出てくるようになっていれば、ケツが物につっかえるようなことにはならない。あるいは、底部スイッチをもっと前部寄りに位置させる設計にしておけば、ケツが浮く、イコール、スイッチOFF、なんてことにはならないのだ。設計が悪い。そう決まった。
そもそも電気スタンドごときに底部のON/OFFスイッチなんか必要なのか。「うちのスタンドはちょっと倒れたぐらいですぐ火事になりますよ」というメーカーの警告なのであろうか。


ということでようするに、石油ストーブ等ならともかく、簡易電化製品の底部スイッチについては毎日毎日邪魔だ不便だ邪魔だ不便だと思いながら暮らしているのであるが、ああ底部スイッチがあってよかったと思えたことはいまだかつて一度もないし今後もあるとは思えない。百害あって一利なし。なんでこんなものが世に存在するのか。撲滅せよ!
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2006年11月01日

ナウいカセット発見

ラベルを貼ってない古いカセットテープがあったので聴いてみると、
The Stranglers"The Raven" → The Cult"Rain" → The Kinks"War Is Over" → The Smiths"Vicar In A Tutu" → Iggy Pop"Main Street Eyes" → XTC"Atom Age" → The Clash"Stay Free" → etc
と、やけに自分好みの選曲だなと思った。自分が作ったテープだから当たり前だが。パンク寄りの普通ぽい曲といった感じのコンセプトか。キンクスを入れてるのはたぶん『UKジャイヴ』というアルバムを買った直後だからだろう。1990年ごろ?

Stranglers-Raven  Kinks-U.K.Jive  Iggy Pop-Brick By Brick

いまテープ作ったらさらにマイナーでもっとやかましい曲ばっかりになるだろうな。Leftover Crack → The Dwarves → Horrorpops → Zeke → etc てな按配で。

Leftover Crack-Mediocre Generica  Zeke-Kicked In The Teeth

年齢を重ねると落ち着いた音楽を聴きたくなるってのは嘘だな。歳とってから急に頭のおかしいこと言い出す芸能人やら漫画家やらも多いし。余命を意識する焦りから奥にしまっていた狂気を吐き出しておきたくなるんだろうか。単純に、脳が衰えてキレやすくなるだけか。

もっとも音楽に関していうと、年齢とは関係なく、メディア環境が広がった(レコード&TVラジオ雑誌 → CD&ネット)ことで好みのものが格段に入手しやすくなったてのが自分の場合は大きい。寄り道しなくてもど真ん中(速い、短い、シンプルなロケンロー)が簡単に手に入る。20年前にいまの環境があったらThe Smithsあたりは聴いてなかったかもね。
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2006年10月16日

珍しくミステリー関係の話題

 といいつつ、まずは『スパイダーズ/宇宙から来た巨大グモ』の話題。深夜にやっててまた観てしまいました。
 主な舞台が地下の秘密施設である点や登場人物がことごとく愚かなステロタイプであることなど、ジョージ・A・ロメロの『死霊のえじき』なんかを思い出したりするわけだが、原型は明白に50〜60年代SFホラー映画群。懐かしのB級映画を(稚拙さも含めて)忠実にトレースすることに全力を注いだような作品で、マニアックなファン意識で作られたという意味ではミック・ギャリスの『スティーブン・キング スリープウォーカーズ』やロバート・ロドリゲスの『パラサイト』なんかに近いテイストともいえるが、わざとやってるんですよという照れの態度を露骨に見せたりしないぶんこっちのほうが潔いともいえる(そのせいで、これがどういう映画か気付けない人がいるかもしれないが)。ラスト15分ほどの素晴らしさはいわずもがな。面白くも何ともない恐竜のCGを見せ場にした『ジュラシック・パーク』はわが巨大蜘蛛の爪の毒を煎じて飲むがよい。

 と何の関係もない前フリだったが、巽昌章氏のミステリー評論集『論理の蜘蛛の巣の中で』をいただきました(一応「蜘蛛」つながり)。ありがとうございます。
 まず目に入った帯の文句、「京大ミステリ研にこの人ありと言われた伝説のカリスマ」というのはどうなんだろう。なんだか、もう過去になったアマチュアの人みたいではないか。普通に「本格ミステリ批評界にこの人ありと言われる」でいいと思うのだが。
 巽氏は「あとがき」に、「私は、お化け屋敷を否定する清張の言葉には賛同しないが、新しいお化け屋敷を生み出した清張の作家活動には深い興味を抱く」と書いていて、前に巽氏が土屋隆夫の文庫解説で書いていたことにわたくしは教えられたことがあるのだが、それは松本清張についても同様である。松本清張が主張していたことはゾラの実験小説論の焼き直しで(*実験小説というと何か前衛的な小説のことみたいに使われるが、文学用語としての本来の語義は「実際の経験のように書かれた小説」、つまりゾラ流の「自然主義リアリズム」小説のことである)、半世紀前の時点でさえ時代遅れな主張だったと思われたが、松本清張や土屋隆夫を論じた巽氏の文章を読みながら、まったく手前勝手なことなのだがわたくしはゾラのことを考えていたのである。つねづねゾラとモーパッサンが「自然主義」とかで大雑把にひとくくりにされるのが不満で、それはモダンな芸術家としてのモーパッサンが一般に正当に評価されていないと感じていたからなのだが、ゾラのほうは実はあまりよく考えていなかった。巽氏の松本清張論らを読んだことで(まことに手前勝手ながら)ゾラを「大衆の生理」を書いた作家として見直すことになり、ひいては、ゾラとモーパッサンの根本的な違いもより明確化することができた。で、あいかわらず当方はゾラよりモーパッサンに興味があるのであるが、それはそれとして、時評集でもある『論理の蜘蛛の巣の中で』は今の日本のミステリー小説の数々に無意識に(ときには意識的に)あらわれた「大衆の生理」を読み取る試みでもあり、それは巽氏がずっと関心を抱いているひとつのテーマだと思われる。
「あとがき」にはこうも書かれている。「無根拠に誕生した表現形式は、しかし、それが世に出て人々の目に触れたとき、ただそれが世に出たというだけの理由で、ただちに、人間の表現活動に影響を及ぼしはじめる。一度見てしまったものは、なかったことにはできないからだ。それは、日常的な知識、感覚との軋轢を生じながら、変容し、増殖してゆくだろう」。
 これは主に本格推理小説のことなのだが、同じようなことは巽氏がたとえで引いているマンガや、古い映画を「見てしまった」者たちによって作られた『スパイダーズ』のようなB級ホラー映画にだっていえるだろう(と書くと笹川吉晴氏あたりがよろこびそうだが)。ロック音楽にだっていえるかもしれない(と書くと円堂都司昭氏あたりがよろこびそうだが)。エロゲにだっていえるかもしれない(と書くと・・・・誰がよろこぶ?)。
 なぜわれわれはこんなものに興味をもったり、影響を受けたりするのか。これはたいへん根本的な問いであって、だから『論理の蜘蛛の巣の中で』はただ時評集というだけでなく、あるいは、ただ小説から時代の傾向を読み取るとかいうだけでなく、なんで自分はこんなものを読んでいるのか、なんで自分はこんなものを書いているのか、すなわち「自分は何者か」という、あらゆる時代のあらゆる人にあてはまる普遍的な問いかけの中で書かれた本だともいえそうだ。
「あとがき」の最後に奥さんのことがちょっと書かれていて、「彼女のように自由でまっとうな本好き、推理小説好きがいつも身近にいることは、ただそれだけで、無責任なものは書けないというひそかな緊張の源になっている」というのはまったくそうだろうと思われるのだが、そこでふと思い当たることがあった。たしか巽夫人は○○が生理的恐怖の対象なんじゃなかったっけ。この書名は・・・・わざとなんでしょうか?

論理の蜘蛛の巣の中で



 もうひとつ、ジャック・リッチー『10ドルだって大金だ』もいただきました。ありがとうございます。『クライム・マシン』に続く藤原編集室発リッチー短篇集第2弾。
 リッチーといえば以前ハイスミスを論じたときに、ハイスミスのある長篇とのストーリーの類似から「エミリーがいない」という短篇にほんの一言だけふれたことがある(本当に名前を出しただけの一言)。その文章でリッチーをもちだす必要はまったくなかったが、当時は短篇集が日本では一冊も出ていず、語る人もほとんど見かけなかったので、こんな作家がいるのだということをもののついでにさりげなくふれておきたかったのである。
 同じような理由で、ジャーロ誌の「ニアミステリな関係」(共通点のあるミステリー作品を二つ挙げてなんやかや言うコラム)の担当がまわってきたときには、当時やはりまだ日本で短篇集が刊行されていなかったデイヴィッド・イーリイの短篇(のちに『大尉のいのしし狩り』に収録された「歩を数える」)と、エドガー賞受賞作であるのに誰も何も語らないマージェリイ・フィン・ブラウンの短篇(「リガの森では、けものはひときわ荒々しい」)を取り上げた。そのコーナーは基本的に「本格ミステリ」を取り上げるということだったので少々ルール違反だったのだが、せっかくの機会だから、ほっといたら誰も語ってくれなさそうな作家や作品を取り上げておきたかったのである。一応、それがボツになったときのために別の組合せは用意してあって、『乱れからくり』と『虚無への供物』という組合せだったのだが、そっちはすでにいろんな人が語っている作品だから自分が取り上げる意義をあまり感じず補欠にまわしたのだった(さて、その補欠コンビに共通することは何でしょう?)。
 というわけで、ほっといたら誰も何もしてくれなさそうだったイーリイやリッチーを、こっちが頼んだわけでもないのに次々と本にしてしまった恐るべき藤原編集室の今後のラインアップを見ると、ロバート・トゥーイの短篇集(法月綸太郎編)が予定されている。トゥーイはかつて購読していたEQ誌でイーリイやリッチーの次ぐらいに楽しみにしていた短篇作家の一人で、まるでわたくしの読書歴や趣味嗜好を熟知しているかのような企みは、順序も含めてちと不気味である(絶対必要なイーリイ→できれば望ましいリッチー→ならばトゥーイあたりも、という刊行順は適切すぎる)。次はバーバラ・オウエンズとかだったりして。ちょっと傾向が違うか。

10ドルだって大金だ
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2006年10月13日

しねしね下北沢  EPISODE3

 前回「つづく」としておいたのだが、考えてみるともう書くことがあんまりなかった。
 昼めしは東京きっちんというところでごく普通のロースとんかつ定食を食べた(珍しいものを食ってやろうなどと考えると絶対後悔するに決まっているので)。隣のテーブルの若い女三人が「こわい映画」の話をしていて、それから「霊魂」とかいう話になり、「和田アキ子さんは見えるらしい」などと話していた。「さん」付けなのが変におかしかった(ちなみに「森公美子」は呼び捨てであった)。
 そのあと適当に歩きまわって、『ざわざわ下北沢』で見かけた踏切や、フジ子・へミングが買物をしていた暗い路地みたいなところにも行き当たったりしたのだが、「ふーんなるほど」という感想である。そもそも自分が見てまわったのが「あの下北沢」の核心であるのかどうかもよくわからない。核心は自分が歩かなかったところにあったのではないかという不安は今でもある。だから、あと何度か訪れて歩きまわってみたいのだが、東京は(わが所在地からすると)遠い辺境の地であるので、そう簡単に訪ねることができないのが残念だ。
 ひとまずの結論として、下北沢は原田芳雄が時代劇の舞台衣装のままそのへんを歩いていても不思議ではない街、でないことだけは確かだ。映画ではそれが当たり前の風景であるかのごとく描かれていたが、そんなやつが歩いていたら絶対に変である。といって、ごく普通の商店街、ごく普通の観光地、でないことも確かだ。種類は違うがたとえば秋葉原なんかもそうで、普通の商店街かと思えばそうでもないし、地に足の着かないフィクショナルなイメージに染まっているのかと思えば案外そうでもない、なんだか自分でも何を演じればいいのか迷っているような感じを受けた。それがむしろリアルといえばリアルなのだけれども、やはり一回訪れたぐらいではよくつかめないところがまだまだあるように思う。
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2006年10月12日

しねしね下北沢  EPISODE2

 商店街を眺めてまず目についたのは、客向けのキャッチフレーズを書いた旗や案内看板にみられる田舎じみた観光地意識だった。これは「最もダサい田舎は東京である」というわが説を裏付けるものであった。最初に歩いた北一番街というところには、「何見る? 何買う? 何食べる?」というキャッチコピーを書いた黄色い旗(地方のアーケード街なんかでよく見かけるようなやつ)が各通りに沿って数メートルおきにずらっとならんでいる。あとで歩いた東会商店街というところにも違うフレーズを書いた旗がやはりならんでいた。その旗を見て歩きながら、もしここで映画を撮るとしたらこれらの恥ずかしい旗を外させるのだろうかと思った。自分だったら絶対に外さないが、とも思った(もちろん、過度にそこを焦点化したりもしない。ありのままのものとしてありのままに捉えるだけ)。
 正直いうと、もう少しこう、いかにも地元密着的な雰囲気を演出して逆に観光客を釣るような(『ざわざわ下北沢』や『木更津キャッツアイ』がそうであるような)いやらしくねじれた自意識を予想していたのだが、露骨なまでに素直な観光地ぶりは少々意外だった。もうひとつ意外だったのは、通りや街並みのスケール感。映画だと5メートルぐらいに見えていた幅が実際に見ると2〜3メートルぐらいだったり、先入イメージと実際のスケール感に差があった。ミニチュアセットに迷い込んだというと大袈裟だが、思ったより狭いな、という印象。

 新宿で買った『狂嵐の銃弾』の主人公は建築家で、最初のほうに次のようなことが書いてある。「レストランにしても自然と客を誘いこむような雰囲気の店がいいのであって、無理に人を引きこもうとするような方法では意味がない」「だが現代の顧客は、評決を聞く前の被告人のような気分でショッピング・モールに入らねばならない。本当は自分の意志で入りたいはずなのに、仕方なく引き入れられるといった状態で入るしかない」。また、レストランの設計を引き受けている主人公は次のようにも考えている。「ターゲットとする客層は、シネマ・コンプレックスに慣れ親しんでいる人々だ。映画のはじまりに五分遅れたらすぐ別の映画を選びなおせるのと同様に、レストランも自由に選べるという発想だ」「彼らは犯罪に巻きこまれるのを恐れ、護られた空間ですごしたいと望んでいる――がその一方で、閉じこめられているような気分は好まない。結局顧客が解放感を味わえるのは、選択の自由があるという程度のことにすぎないのが現状だ」。
 それでいうと、下北沢の商店街にならぶ客寄せキャッチフレーズは「無理に人を引きこもうとするような」ものなのだが、個々の店が気軽に入りやすい雰囲気なのは事実で(最も入りやすそうに見えたのがモスバーガーだったというのはともかく)、訪れた者からすれば限られた「空間」の中での「選択の自由」がある。こうした構造にある種の居心地よさがあるのは確かだ。客引きのアルバイトが店頭に立ってサービス券だか何だかを配っているような店には絶対に入りたくないが、自分が見た範囲でそういうことをやっている飲食店は下北沢では一件しか見かけなかった。つまり、腹が減ったらその一件を除くすべての店から気軽に自分が入りたい店をどれでも選べるのだという気分にさせてくれるわけである。そうした敷居の低さのようなものが、たとえば新宿なんかとは違うのだが、理由はやはり限られた空間内での自由というコンプレックス的な構造だろう。
 ただ「空間」に関していうと、例のキャッチフレーズの旗を(本当は自分の意志で歩きたいが、仕方なく導かれるといった状態で)たどり、途中で見かけた古本屋の店頭ワゴンでフレドリック・ブラウン『消された男』(70円)なんかを買ったりしながらぶらぶら歩いていくと、いつのまにか人も店もまばらになった外れに来ていたりして、地元の(商店組合か何かの)人もどこまでを「あの下北沢」の空間としてアピールすべきなのか、きっちりした境界がよくわかっていないようにみえた。それはむしろ好ましいことに感じられたが、同時に、下北沢のわかりにくさの一因でもあるように思えた。空間を限る境界があるようなないような曖昧さであるために、初めて訪れた者には自分が見ているものが「どの」下北沢なのか、ひととおり見て歩いたぐらいではよく把握できないのである。

つづく


狂嵐の銃弾     消された男
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2006年10月10日

しねしね下北沢  EPISODE1

 年に一度の東京見物の機会だったので、今回は下北沢とやらをこの目で見てみようと目論んだ。映画などで描かれる下北沢のイメージと実際の下北沢がどれぐらい似ていてどれぐらい違っているのか確認しようと思ったのである。
 たとえば市川準の『ざわざわ下北沢』は下北沢という街のイメージをスケッチ風に描いた映画で、例によって(市川準の創作物が常にそうあるごとく)わざとらしいのは確かなのだが、そのわざとらしさの成分内容、すなわち「作者の勝手な創作の部分/下北沢じたいがもつわざとらしさを反映しようとした部分」の比率、が、いかばかりであるのか、それは実際の下北沢を知らないことには判断しようがないのだ。市川準がわざとらしいものしか作れないのは充分知っているけれども、この場合は素材そのものが含むわざとらしさ性質を比較的ストレートに反映した部分もまた、あるだろうと考えられたのである。そこんとこの兼ね合いがどの程度なのかを知るには、自分の目で実際の下北沢を見て確かめる以外に手はない。一回見物したぐらいでは何もわからないかもしれないが、それでもまったく知らないのと一回でも実地に見ておくのでは違うだろう。

 ということで東京にやって来たものの、下調べをしておかなかったので下北沢がどこにあるのかまったく見当がつかなかった。泊まったのは水道橋だが、そこから近いのか遠いのか、東なのか西なのか南なのか北なのか、皆目わからない。とりあえず新宿にでも出たほうが見通しがよかろうと思ってまず新宿へむかった。
 紀伊国屋書店で『狂嵐の銃弾』(デイヴィッド・J・スカウ、扶桑社ミステリー)を買ったりしたあと、駅で路線図を眺めてみるが下北沢という駅がどこにも見当たらない。東京に来たときはほとんどJR線しか利用したことがない習性でJRの路線を眺めていたのである。下北沢駅というものがこの世のどこかに存在することは映画で知っていたので、JRにないとすれば他の私鉄だろうと考え、他の路線図をさがして見てみると、小田原線というのにその駅があることがわかった。しかも新宿からたった150円の距離。あてずっぽうで新宿に来てみて、これはラッキーである(あまり遠いようだったらめんどくさいからあきらめようと思っていた)。
 下北沢駅のホームに降り立っての第一印象は、出口がわかりにくいということであった。矢印の案内表示はあるのだが、何か嘘っぽい。なぜそう感じたかは第六感か何か知らないけれども、あまり信じたくないような気配がその案内表示にはあった。とはいえ他にたよるものもないので、嘘でもこの場は信じたふりをしておくしかなく、「出口 北口・南口→」などと書かれた表示をたどって、途中で関係ないホームへの階段をのぼったりおりたりしながら(矢印がそう行けと命令しているのだ)、ようやく本物の出口にたどりつくと、そこに書いてあったのは「西口 北口・南口は反対側です」なのであった。「北口・南口→」というから信じて素直に矢印をたどってきたのに、着いたところは「北口・南口は反対側です」。死ね。
 こうして実際に見てまわる前から死すべき街と化した下北沢なのだったが、やはり西口はメインから外れたところらしく、にぎわっていそうな方向へしばらく歩いていくと、映画でよく見る階段の出口を目撃することができた。下北沢を舞台にした映画には必ずこの駅の階段を降りてくる人々のショットがあるような気がするのだが、なんでだろう。お約束で自由の女神さえ映しとけばそこがニューヨークであることを説明したことになるようなもんか。東京の人は駅の階段出口を見れば「あ、下北沢だ」と条件反射的に思うのであろうか。東京の人じゃないのでわからない。

つづく
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