2010年06月12日

『終りなき夜に生れつく』といえば

 何しろ最初に読んだクリスティーの長篇である。愛着がないわけがない。
 中学生のころテレビの深夜放映で「クリスティー原作」という以外には何の予備知識もなしに(したがって、これという期待感もなしに)モノクロ映画の『そして誰もいなくなった』を見て、あまりの面白さに本屋へすっとんでいき、「アガサ・クリスティーの長篇で名探偵が出てこないやつ」をさがして買ってきたのが『終りなき夜に生れつく』だった。すでにクイーンはちらほら読んでいたと思うし、ポワロやマープルといった探偵の存在も情報としては知っていたと思うが、名探偵が出てこないミステリーもこんなに面白いのだということを映画で具体的に教えられ、いてもたってもいられなくなったのである。家に着くのを待ちきれず、駅のホームで本を開いて読み始めたこともおぼえている。
 なかなか事件らしい事件が起きなくてもまったく苦にならなかったのは、ルネ・クレールがアメリカで撮った(というデータは後で知ったのだが)『そして誰もいなくなった』にすっかり舞い上がり、その余韻をたっぷりひきずったまま読んだからである。小説を読むというよりは映画を見るように、いちいち頭のなかでシーンを映像に置き換えながら、そして自分で思い浮かべた映像イメージを反芻し浸り込みつつ読み進めたので、ストーリーなどはほとんど二の次であり、終盤で明らかになる真相やトリックもそのときの自分にとってはおまけ程度の楽しみでしかなく、推理小説を読んだというより一本の映画を見終えたような満足感だけが残ったのであった。
 続いて、やはりポワロもマープルも出ない『ゼロ時間へ』を読んだのだったと思うが(もちろんこれも面白かった)、少し後にNHKで放映された英国製のTVドラマ『なぜ、エヴァンスに頼まなかったのか?』(これも名探偵が出てこない)もこちらのイメージを裏切らないもので、ストーリーも面白いが楽しんだのはやはり英国の風景がふんだんに出てくる映像イメージだった。
 しかし、ずいぶんあとになってよく考えてみると、クリスティーの小説自体にはさほど風景描写といえる文章は出てこないのである。あってもごく簡潔で、お世辞にも上手いといえるものではなく、前にも書いた気がするがフィルポッツや他の風景描写を得意とする英国の作家にくらべると屁みたいなもんである。
 にもかかわらず、映画の余韻にひきずられて読み始めた自分の場合だけでなく、クリスティー原作の数々の映画やTVドラマがまるで約束事のように強調するのが、風景イメージを前面に押し出した映像である。クリスティーの小説に書かれてもいない豊かな風景イメージを勝手に読んで楽しんでいた読者は、どうやら自分だけではなかったわけである。
 似たようなことがおそらくジェイン・オースティンの場合にも起きていて、オースティンの小説には純粋な風景描写がいっさい出てこないのだが(あるとしたら「あの人の地所にはこれこれの丘や森がある」といった事務的な説明文だけである。クリスティーの場合はともかく、オースティンは明確な意志をもって自分の小説から風景描写を排除したはずである。いわば、そんなものを「書かない」のが彼女にとって小説を「書く」ということだった)、映像化されたイメージではいかにも「英国風景」といったものが強調される。それこそ彼女が死んでも書こうとしなかったものだというのに。
『終りなき夜に生れつく』はいまちょっと読み返している暇がないが(サッカーの季節なもので)、たぶん読み返してみたら、ゴシックロマンスを基調にした作品だとはいえ、最初に自分が読んだときのような映像イメージに直結する描写はさほど出てこないのではないかと思う。いうなら、実際には書かれていないからこそ、ぽっかり開いた空隙に読者が手前勝手に思い描いたイメージを流入させるのだ。流入したイメージはほとんど既成事実化し、現実化し、映像によって具体化する。穿たれたイメージの真空にたちあらわれる「ヴェラ」(リラダン)のごとく。
 書かれてもいないものを読んでしまう読者は世界中にいる。たしかに書いてあった、と彼らは声を上げる。たしかに見たんだ、と主張する。

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